つい最近、YOUTUBEで聞いたお話を共有したいと思いました。
長期にわたり、様々な制約を余儀なくされた皆様にとって、
少しでも引っかかる内容のようなので。
「菜根譚」(さいこんたん)という書籍のあらすじです。
菜根譚は、「堅い野菜の根も苦にせずよく咬めば(苦しい境遇に耐え忍べば)、あらゆることはなしとげられる」とする古事に由来します。
この「菜根譚」は中国の明の末期、社会情勢が不安定な中で、洪自誠によって著述されました。
その後、菜根譚について、江戸時代から明治に至るまでにたくさんの解説書が出版されます。
やがて著名人たちに、処世術、座右の銘の集大成みたいな位置づけとして、読み継がれました。
現代においても、○○の菜根譚という形で、それぞれの著名人編が出版されてきました。
また、菜根譚には、「菜根」が粗末な食事を象徴とする言葉であることから、貧しさをいとわない清貧の暮らしを良いものとする意味も含まれています。
前置きはこれくらいで、、、、
菜根譚の5つのテーマについてのあらすじ
「幸不幸を分けるもの」
まず一つ目のテーマ、「幸不幸を分けるもの」についてです。
幸せな人そして幸せでないとこの両者を分けるものとは何だろうか。
それは私たちの心、心の持ち方で幸せが幸せでないかが決まるのだ。
心が動揺していると、我々人間は物事をありのままにとらえることができなくなる。
例えば酒の入った杯に指が映ればそれを蛇だと勘違いをし、草むらに横たわる大きな岩を見ればそれをしゃがみこんでいる虎と見間違う。
心が乱れた状態で生きていると、自分の目の前に映る全ての人や物がまるで自分を傷つけ攻撃してくる対象であると錯覚してしまうのだ。
また心が動揺し雑念に支配されてしまうと自分の事もよく分からなくなる。
本来自分はどういう人間なんだろう、本当は何が好きで何が嫌いでどんな生き方をしたいんだろう。
そうやって一生懸命自分の心の中を覗き込んだ本当の自分探して心が雑念で曇っていては何も見つかりはしない。
それはまるで水面に映りこんだ月を一所懸命手繰り取ろうとしてるようなものなのだ。
禅の教えでは、この世の全ては自分自身の心の動きによって作り出されている」と説きます。
ですから心の鏡を雑念によって曇らせないようにしておきましょう。
そうしておかないと幸せを感じることもできないし、自分自身の事もよく分からなくなって、どんどん心が曇り乱れていってしまいますよ、とおっしゃってるわけです。
じゃあそうならないためにはどうすればいいんでしょうか?
菜根譚では、暮らしの中にゆとりを持って自分と向き合う時間を大切にすることを、全てが静まりかえった夜一人座ってじっくり自分を鑑賞するその習慣によって少しずつ煩悩が消え去って正常な心が現れ、その延長線上に大いなる悟りの境地があるのだと説くわけです。
ただそんなこと言っても忙しくて時間がないよ、という方もいらっしゃると思います。
実は時間についても人間の心次第だと本書には書かれているのです。
「後悔しない時間との付き合い方」
では2つ目のテーマは、「後悔しない時間との付き合い方」について見ていきましょう。
時間というのはその時間を過ごす人間の気持ちの持ち方とらえ方次第で長くもなり短くもなる。
これは場所についても同じだ。
心の持ち方一つで広くもなるし狭くもなる。
ゆったりとした気持ちを持った人間には1日がまるで千年の長さに感じられることもあるだろうし、狭苦しい部屋も天地の広さに感じられることもあるだろう。
結局は心次第なのです。
時間は永遠であるのに対し、人生の時間だけはどうなっても巻き戻すことができない。
この世に生まれた以上楽しく生きたいという願望、そして時間を無駄にすることへの恐れ、この二つの感情を同時に持っておきたい。
冬になると葉が落ちた樹木を多く見かけるだろう。
普段なら何も思わないのに葉が落ちかつての力強さを失ったその姿を見た時、「この木もかつては葉が生い茂り、花をつけていたのか、なんと繁栄とは儚いものか。」と初めて気づく。
何が言いたいかと言えば、人生もこれと同じなんだ、普段全く考えもしない死という存在、これと真正面から向き合わなければならない時がいずれ必ず訪れ、そしてその時になって初めて気づくのだ。
今まで汗水たらして溜め込んできた財産、そして必死に教育を施した子供ですら、最後の最後には何の役にも立たないことに気づかされる。
だからこそ、何の心配も後悔もなく安らかに人生の幕を閉じることができるような、そんな時間の過ごし方が大切だ。
例えば暇な時ただ漫然と時間を垂れ流すように生活することは避けた方がいいだろう。
その時の過ごし方が本当にあなたが忙しくなった時に跳ね返ってくるからだ。
あと、仕事を休んでる時も同じようにダラダラと過ごしたら、その時のあなたの時間の過ごし方や心の在り方が仕事を一つ一つに現れてきてしまうから、誰も見ていないからいいだろうと自分の良心を欺くようなことをすれば、そういった態度が思いもよらぬところで表に出てしまう。
人生には「ゆとりですよ、心が大事なんですよ」というような柔らかな助言もありながら「時間は無駄にしてはダメですよ」と言うように厳しく言うべきところはビシッと言うのが、この菜根譚の大きな特徴です。
ただ厳しい人生訓をお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、菜根譚はそういった類のものではございません。
どちらかと言うと孤独な苦労人が読者に気を使って偏りなく語っているものなので、良くも悪くも嫌味や刺々しさがありません。
だから、読んでいる途中で苦しくなったり、追い詰められたりするような気持ちになったりしにくいので、多くの読者から受け入れられ、長く親しまれてきたのかもしれません。
「平凡から生まれる最高の人生」
3つ目のテーマは「平凡から生まれる最高の人生」についてです。
菜根譚の中では、どんな生き方を勧めているのでしょうか。
人として恥じることのない真っ当な生き方を心がけたいものだ。
しかし、そういった態度を貫いていると、ある人は出世の道から外されたり、またある人は不遇な生活を余儀なくされたりすることもあるだろう。
その一方で権力者に媚びへつらいながら生きているものが優遇され、得意満面の生活を送ることだってあるかもしれない。
だからといって筆者は後者の生き方を進めたりはしない。
なぜならそれは一時的なものであって、絶対に長続きはしないからだ。
だからこそ人間は、たとえしばらくの間、孤独な生活を送ることになったとしても、自分の道をまっとうな生き方をすることが大切なんだ。
よく自分の功績 人前で得意気にひけらかすものがいるだろう。
これはすなわち外面にしか人間の価値は宿らないと信じていることの表れなのだ。
経済的に豊かでないこと、思ったような成果が得られないこと、学歴がないこと、そんなものは関係ない。
誠実な心さえ失わなければ、人は必ず立派な人生を送ることができるのだ。
だからと言って変に肩に力を入れて身構える必要はない。
大切なのは自然体で、規範を踏み外さない範囲でありのままに生きるということだ。
腹が減ったら飯を食い、疲れたら眠る。
この言葉は禅の極意と言われている。
この言葉から導き出される真実とは何だろうか。
それは最も高度なものは平凡なものに宿り、最も難しいものは最も平易なものから生まれる、ということだ。
一生懸命技巧を凝らせば凝らすほど真実から遠ざかり、その一方で、あるがまま無心であるほど真実に近づくということなのだ。
儒教の教えでは五常と言って、「仁義礼智信」の5つの徳を守ることを勧めています。
簡単に言いますと「仁」は人を愛し思いやること。
「義」は欲望や損得にとらわれず自分以外の誰かのため社会のために行動すること。
「礼」は謙虚な気持ちを持って相手に対し敬意を払って接すること。
「智」は幅広い知識や知恵を習得し、わきまえた上で全体を判断すること。
「信」は人との約束を守り、嘘をつかず誠実であること、を指します。
また、道教や仏教の思想を取り入れ、自然体であることあるがままであることの大切さも同時に説いているところが重要なポイントです。
菜根譚が誕生したとされる明の末期というのは約280年続いた一つ王朝が、今まさに滅亡しかかっているタイミングであり、国家や国民の支えであった儒教に対する価値観も大きく揺らいでいた時期と言われています。
国家の財政難は一向に改善されず、国民の生活は苦しい。
政治は派閥闘争ばかりで全然まとまらない。
さらにペストや天然痘といった疫病まで大流行している。
それはそれはもう本当に酷い状態です。
そういった状況下で、当時の世界を生きていた人々は考え、そして悩んでいました。
このままの道を信じるべきか、それとも新たな道を模索すべきか、それが問題だと。
要するに菜根譚はこういった社会背景文脈の中で生まれたからこそ、揺れ動く人間の心に寄り添い、その人の今の境遇や状態に合わせて柔軟に解釈できるような幅を持たせているというわけです。
「本当の幸せとは何か」
4つ目のテーマに移ります。
次は、「本当の幸せとは何か」というお題で進めさせて頂きます。
苦しいこと辛いこと人生色々ありますけれども、結局人はどうやったら幸せになれるんでしょうか。
世の多くの人は、財産や名誉や地位がある人こそが最も幸せな人間であると思っているようだが、そうとは限らない。
実は名前も知られていない名誉も地位もなにもない、ごくごく普通の人の生活の中にこそ最高の幸せがあるのだ。
例えば住む家もなく、毎日の食べ物がない人がいれば、なんて気の毒なんだと誰もが思うだろう。
だが財産も地位も名誉も手にした人間というのはそれ相応の深刻な悩み不安を抱えているものだ。
しかし多くの人はそういった事実について不思議と目を向けない。
これ以上ない満ち足りた境遇というのは、例えるならば、「器に注がれた今にも溢れそうな水」のようなものだ。
この上に一滴たりとも加えることを許されていない。
人間にとって本当の幸せとは何だろうか、それは何事もなく平穏無事に過ごせることに他ならない。
それこそが何よりの成功であり幸せなことなので、逆に止め処なく溢れる欲求に囚われ、何をしても満足できない人生ほど不幸なものはないだろう。
釈迦がかつて言ったように、欲望が燃え盛る灼熱地獄となるのだ。
自分の精神が充実していれば、粗末な布団にくるまっていようが、質素な食事をとろうが、人生は十分に楽しむことができる。
確かに幸福というのは手に入れようと思っても、そう簡単に手に入るものではない。
だが常に喜びの気持ちを持って暮らすことで、幸福を呼び込む道を作ることはできる。
また、不幸も同じく避けようと思ってもなかなか避けられるものではない。
だが常日頃から人を傷つけないよう心がけることで、不幸が入り込んでくる道を狭める事が出来る。
こういった幸せは不幸といった個々の感覚は、本質的に表裏一体の関係になっていることに気づかねばならない。
例えば子供が生まれる時、母の体は危険にさらされ、金持ちになれば、その財産や命を狙われる。
要するに悲しみだけが不幸を呼ぶのではなく、喜びもまた不幸を呼び込むためになるのである。
それゆえ人生の達人と呼ばれる人は幸せも不幸も同じと考え、己が感じ取った喜びや悲しみといった感情を忘れ去りながら生きているのだ。
いかがでしょうか。
実に興味深い内容です。
誤解のないように申し上げておきますと、菜根譚では平穏無事に過ごせることを最高の幸せと説いていますが、経済的社会的成功をすべて否定しているわけではございません。
実際に本書でも自らの徳によって大成功は、野に咲く花と同じく、自然と枝葉が生い茂り継続性があるものだと表現しています。
ただそこばかりに目を奪われてしまうと、灼熱地獄のような辛い世界を生きることになってしまうので、どこかで満足するように努めて下さい。
まだいける、まだいけると、どんどん進んでいくと、あなたいずれ溺れますよ。
だからどこかで引いてくださいね、とおっしゃってるわけです。
また財産や地位名誉などあらゆるものを手にした人間には、それ相応の深刻な悩み不安葛藤があるんだというご指摘、ここも面白いところです。
「人間関係の三原則」
いよいよ最後に5つ目のテーマ、「人間関係の三原則」について見てまいります。
先程、「人を傷つけないことによって不幸を避ける」とありましたが、具体的にどのように人と関わることを菜根譚では進めているのでしょうか。
人と接する時は三つの事を心掛けると良いだろう。
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一つは相手の小さな過ちや失敗をいちいちとがめないこと。
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そして二つ目が相手の隠しておきたいことをわざわざ暴かないこと。
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最後、三つ目が相手の過去の過ちをいつまでも覚えておかないこと。
だそうです。
そうすることで、己の人格も高まるし、何より人から余計なことで恨まれることもないだろう。
また仕事などで困ってる相手のためにあなたが手を貸してあげたとしたら、このとき注意しなければなないことは「自分が与えた恩恵については一切の見返りを期待しない」ことだと。
繰り返しになるが相手から恨みを買わないこと、それこそが何よりの見返りなのだと心に留めておくといい。
この世界にはいろんな人間がいる誰に対しても細やかな配慮があり何事も行き届いている者もいれば、その一方で、誰に対しても全く配慮もなく人に興味を示さないものなど、実に様々な人と関わり合いながら生きてる以上、配慮がありすぎるのも、なさすぎるのも問題だろう。
君子たる者は、そういった偏りのない態度を心掛けたい。
何事についても言えることだが、極端に傾くことはそれ相応のデメリットがあることは知っておくべきだろう。
例えば組織内での地位が上がれば、そのぶん周囲からの風当たりも強くなり、思わぬ消耗を強いられる。
また才能を発揮し続ければ、後が続かなくなるし、立派な行いもやりすぎれば誹謗中傷にさらされることもある。
であれば、何事もほどほどがいいのだ。
花を見るなら五分咲き、酒を飲むならほろ酔い程度、このあたりにこそ最高の趣がある。満開の花を見たり、酔い潰れるまで飲んだりしては興ざめだ。
かつて、孔子が最高の徳としていた、概念の一つに中庸というものがあります。
意味としては偏ることなく常に変わらないというものになりますが、その中庸の精神、バランス感覚こそが大事なのだというわけです。
だから真面目すぎたり、こだわりすぎたり、神経を使いすぎたりするのも中庸ではないということになります。
例えば、先程お相手から恨まれないように気をつけてくださいね、とありましたが、だからといって別に万人から好かれようと神経をすり減らしすぎるのは NG なわけです。
つまらない人間のために、ただへこへこし、調子を合わせたり、部下から嫌われないように、ただ喜ぶことだけしかやらなかったりするのはあまりよろしい態度ではないとはっきりと菜根譚には書かれています。
ですから自分を貫くべきところは貫いていいわけで、それでもし何かあったとしてもそれはもうしょうがない。
まぁどうにかなるさと、それぐらいの心の余裕を持ちましょうというわけです。
最後に
全てのテーマの紹介が終わりましたがいかがでしたでしょうか。
ひとつふたつ、これはという気づきを見つけて頂けたのであればとても嬉しいです。